山崎 鯢山 やまざき げいざん
   


呼絮呼鹽未足當
品評千古望中恇
須將飛雪倣飛雪
欲比花來也欠香
    雪
(わた)と呼ぶも塩と呼ぶも未だ当たらず
品評千古 中を望むを恇(おそ)れる
須らく將に雪飛ばんと 飛雪を倣う
比べんと欲して花来たるも 香欠く也
111.6p×55.1p

文政5年正月元旦(新暦 1822年1月23日)生〜明治29年(1896)5月4日歿
 山崎吉興の二男として津軽石村に生まれた。名は吉謙、通称を謙蔵、字を士謙、号は鯢山。鯢山という号は山田町と大槌町の境にある標高610mの鯨山にちなみ、鯢は雌鯨の意。
 17歳の時、当時、江戸に遊学中の兄友仙(医師)を帰郷させるために単身江戸に行き、兄を帰した後、儒学を昌谷清渓・林文毅、尾藤竹山に学んだ。後、関東、関西、山陰、山陽に遊学し、京都で梁川星巌に詩を学んだ。星巌は常に鯢山の詩を評して「天籟」と称賛し、籾山衣洲の「明治詩話」によると小野湖山、大沼沈山と共に「梁川門下の三山」と讃えている。
 嘉衛4年(1851)、「イギリス史」「ロシア史」等、新しい学問について書を世に送り、安政4年(1857)「鯨山詩稿」を著した。安政6年(1859)陸奥盛岡藩主の召により儒官となり、のち藩校作人館の助教となり明治維新に及んだ。
 明治初年(1868)、県庁に勤め、岩手県地誌編纂にあたったが、同12年(1879)、盛岡東中野に集義塾を開き、近隣の青少年数百人がその門をたたいた。太田孝太郎が「鯢山の書は拮屈の風あるも雅韻あり、或いは詩の上に出ずるであろう」と評していることから、鯢山は儒学、漢詩、書道共に優れていた事がわかる。また穏健な思想の人であったと考えらているほか、尊皇の思想、開国の思想にも通じていたが過激ではなかった。
 「鯢山老人謙」の下に、白文の「山崎謙印」、朱文の「士謙氏」の落款印が、押されている。

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